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2015年10月

隠岐ツアーのリサーチ (2015・11月1日)

 151025_201504 来年4月に予定してる「隠岐騒動歴史探訪ツアー」のリサーチに隠岐の島にいってきました。 私の他に、Wさん、Iさんとの三人で。

まずまず予想以上のしっかりしたリサーチとなりました。
が、宿では隠岐しげさ節の踊り(皿おどり)の練習も。
まあ、これも大事な要素です。

参加される方もこうしたことも想定内で参加されると思いますので。 なにしろブンジイが幹事なもので。。。

ところで隠岐が[世界ジオパーク]に認定されたことは御存知とおもいますが、港に着くと・・とジオパークの展示のいかにも・・の箱ものの施設が。151025_125759_2
なんとなく入ってみました。

しかーーーし、みなさんに是非ご入館をお勧めします。
内容がすばらしかったです。 それというのも若い男性スタッフが付きっ切りで解説してくれたからです。

来年のツアーにもしっかりコースに入れることになりました。 特に記念に特別にいただいたこの冊子の表紙の黒曜石をはじめとした[石]の展示は、私にとっては特別興奮ものでした。

そして一日目の午後3時すぎ・・、私とI(あい)女子はコーヒータイムがないと倒れる人種なので、皆で港のカフェ屋に。 そこに遠151025_171116○という隠岐の島町の議員がおられ、ふとしたことから牛の話に。
牛については私のDNAが黙っていないぞ・・。 修学旅行で隠岐にくる高校生に、たずな一本で牛を散歩させるとか、牛が海を泳ぐところを見せるとか・・などとけしかける私に、「それなら私の牧場を案内しましょう・・」と夕暮れ近く、原野をさまようことに。 

 (ダジャレの時間です) *ここは鹿しかいないね。 *雨が降ってもアメなめる。 *バクの買い *チャンポン食べ過ぎ腹がチャンポン・チャンポンゆう[考案地・長崎]。 *バッタがバッタリ倒れる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ では隠岐騒動です。

『 隠岐騒動の歴史深訪ツアーによせて 』 (その6)

□ さて、隠岐騒動の立役者だった多くの活動的同志たちは、新しい県から、その政治的手腕と人望をあてに行政の役人を依頼されます。 しかしそのさい、自分たちはもともと無給で政務をやってきたので、いまさら俸給はもらわなくてもいいという態度だったとのこと。

□ また、松江藩の郡代等への苛酷な罰にくらべ、自分たちが一切不問にふされるのは不本意であるとして何回も上訴し、とうとう「百叩きといいながら、たたくまねをするのみ」などの形式的な刑罰が行われたなど、隠岐騒動の指導的人物たちの精神のありどころをしめす面目躍如な話も残っています。

□ また、廃仏毀釈で得た山林は島の共有財産となりました。 また寺の建物を利用して学校が開設されていく。 そしてついには当時山陰には、県立中学は浜田、松江、鳥取しかなかったが、隠岐県は県立隠岐中学を開校しました。 この中学は島根県に移行後に予算上の理由で廃止となりますが、学びと思想を重んじる隠岐ならではの出来事といえる気がします。

□ また、島根県政や国政の議員として立候補する人物も輩出しますが、初期の立候補者は、ここでも正義党などの隠岐騒動のメンバーが中心であったようです。 もちろん多くの同志が学校の教員などになって行ったのは自然の流れでした。

□ しかし一方、時が経つと島根県から派遣される役人は、以前の松江藩の役人が復活しているケースもあり、なによりも中央政府が島民が夢見た姿から乖離していったことも、隠岐騒動に懸けた純粋な島の人の心にどのように映ったか懸念されるところです。

□ なお隠岐騒動における女性たちが占めた役割にまなざしを向けた評価はそんなに多くはないようです。 しかし、当初の蜂起が無血革命だったことなどの背景に「隠岐のおなご」衆の強さとたおやかさがあったのではなどの指摘もあるのですが、今後、その面での評価と掘り下げが待たれるところです。

□ さてここで、各分野の人士による隠岐騒動の取り上げを簡単に見ていきたいと思います。

・ まずなにを置いても1943年に、隠岐騒動のそのコミューン性を先駆的に指摘したカナダの歴史学者ハーバード・ノーマンが挙げられます。 彼はまた、敗戦直後マーッカーサーとともにカナダの代表部として来日し、「軍国主義に導いた権力と勢力の根絶」の任務にたずさわり、治安維持法により投獄されていた「政治犯」を自らジープで解放に向かったなどの心からの良心派であったため、その後マッカーシー旋風の犠牲となって死に追いやられた人生をたどります。

そしてその著「日本における兵士と農民」が戦後すぐ日本語で出版されたさい、我が島根の旭町出身の服部之総が「本書は戦後出た日本人の書いた、たいがいの歴史書よりずっと優れている」と同書のオビに賛辞の言葉を残していることも抑えておきたい事項です。
・ 文学者では五木寛之氏、井手孫六氏等。 研究者では羽仁五郎氏、松本健一氏、半沢弘氏、橋本文三氏、井上清氏、奈良本辰也氏ほか何人もの方々が、隠岐騒動をそれぞれ積極的な立場で論究されています。 

・ また地元の研究者では、内藤正中、藤田新、中沼郁氏の共著になる「隠岐国維新史」(1986年山陰中央新報社)と、中沼郁、斎藤公子氏の共著になる「もう一つの明治維新」(1991年創風社)の二つがあり、それぞれ定本として扱われています。(以下次号)

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軍艦島の見える丘・・(2015・10月・20日)

151017_080839_2  臨時のUPです。 Eメールアドレスを書きましたが、再度変更しています。 [ hitonet@mable.ne.jp 』です。
さて先週まつ2日間、長崎に監督と(いや・・奥さん・・と)行ってきました。
斎藤メソッドの交流に「菜の花保育園」というところに行ったのです。 長崎市からさらに20キロ近くも南へ細長い半島を。
そして一日目は運動会の見学。
それが園の近くの山の上の団地の一角。
ああ・・・。こりゃ・・東シナ海だっぺ。。などと思っていると、沖の左手の奥のはじっこになにやら○○らしき島影が。
地元の人にきくばい! 「あれですとォ 端(は)島です。軍艦島ですたい」
エエッッ!! 観光に来たのではないバッテン、うれしか!! うちの奥様・・2度丘に上がって眺めたとです。。

151017_112956  運動会。 ゆったりした懐かしさ満載の運動会でした。
あれ? アルゼンチンのことももう終わって2年もたつけど、どうしたとですか・・って。 確かに足は洗ってるバッテン、心は洗ってないサァ(何語か解らなくなってきた。)
写真は運動会の入場門の鯉のぼりです。 風はそこそこ涼しいのになにしろ日差しが強かった。 
学童さんが70人もいて、その子たちが運動会の進行や参加もあり、すばらしかったです。

151018_125754 その日の夜、アルゼンチンの活動の様子をパワーポイントで紹介させてもらいました。
翌日は5つの園の方々と斎藤公子氏の業績についてこもごも意見交流をしました。 とてもすてきな時間でした。
( こうした最近の動きの中身についてはブログにしずらい面もありますので、こんな感じのブログでご勘弁くださいませ。)
・ ところでその長崎の街の方は、地元の方には申し訳ないですがいささか大変な感じでした。
中国とかいう国から、毎週4000人ぐらいの客船が来航し、△~・・~の状況のようで、一人10万円消費されるとして40億円が毎週・・ という状況でひどくざわついた印象でした。
・ それにマンション10個分ほどの巨大客船も2隻工事中で、その外国人を含めた労働者も市内のホテルを貸し切っているとかで、まったくホテルがなくて、土曜日の夜は30キロ戻った「諫早」のホテルで泊まりました。
では、隠岐騒動・・NO5です。↓

『 隠岐騒動の歴史深訪ツアーによせて 』 (その5)
 
松江藩の暴力に対して起の指導者や主だった同志は一旦山中に隠れ、その後、因幡等の港に避難し、日をおかずして帰島する例が多かったようです。 そうしたことを容易にしたのは、松江藩側の総会所への攻撃も政治的というより単なる報復という側面が強かったわけで、京都の政権からすれば整合性のない側面があり、事態の推移に松江藩も格段の確信があったわけではなかったと思われます。
 
そうした動向はすぐさま現れます。 藩による報復から数日もたたない慶応4年5月14日、新政権側として鳥取藩の一行が隠岐に到着します。 また、まったく同じ日に倒幕の中心勢力である薩摩と長州の軍艦が西郷港に現れます。 これは隠岐の異変に対応したというより、会津における闘争に向かう途中立ち寄ったものですが、松江藩側には驚愕の光景だったのではと想像できます。
 
京都の新政権の太政官の命をうけた鳥取藩の糾問も、当然、「自治政府」側に有利に展開し、6月13日には一か月ぶりに総会所が復活、「自治政府」がふたたび復活します。 自治政府は新たな人的体制を敷き、最終的には松江藩も完全に撤退します。
 
この年の9月には慶応から明治と変わりますが、そのわずか半年後の明治2年2月、「隠岐県」が設置され、「自治政府」は「県」に吸収される形となり、ここに姿を消すこととなります。
 
 
その後、この「隠岐県」は大森県(もともと同じ天領だったことによると思われます)、浜田県(隠岐騒動の中心勢力の正義党が、倒幕派である浜田にある長州勢力と気脈を通じていたことによるものと思われます)、島根県、鳥取県、また島根県へ・・等と、14年間で8回もの変遷をたどりました。
 さてこの自治政府の隠岐県への吸収・消滅と入れ替わるように隠岐島を席巻した事件がおこります。 それが廃仏毀釈(きしゃく)でした。 
もとより廃仏毀釈は全国的なものでした。 しかし当時の寺や僧侶の目に余る金権と腐敗ぶりと、仏教でなく神教が国策とされたという一般的な側面だけでなく、隠岐島には特別な意味があったのではと思えてなりません。 それは島民にとっては「隠岐騒動」に連続した形でこの問題に対峙することとなり、それは隠岐騒動が多分に思想革命であったことが、目的を変えて寺や僧侶への排斥のエネルギーに転嫁していったように思えるのですが。
 
いずれにしても2期目の自治政府は時勢に飲み込まれていったことが容易に想像できます。 騒動の中心的指導者たちの中には他国に流れ、ふたたび隠岐の地を踏まなかった横地官三郎の例や、その後の一生をほとんど一室にこって過ごしたと伝えられる忌部正弘の例など、同志たちの心情はいかばかりかと思いはかられます。
 それはちょうど、京都にいて天皇を政治や軍事の道具とする新政権と対峙し、早々と野に下って久しい中沼了三が日清戦争時、広島の大本営に約25年ぶりに天皇をたずね、その軍服姿にはらはらと落涙した心情とどこか近いものを感じます。 (以下次号)

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オマールさん(続)・・と、猫に蜂・・(2015・10月15日)

150919_113324 そのオマールさん。身辺の苦労もこもごも・・。
ただ今回は彼の母国語での会話も2年目となるので、少し立ち入った会話も。
その中で、「 自分の母方の祖母はパリでナチス(ヒトラー)に家族の半分が殺された.。 残りの家族がアルゼンチンに移民した・・」というもの。
 そこには暗に、「 自分はその祖母の家系の精神を受け継いで生きていきたい 」という思いがあるようでした。
招聘した八雲村(いまだに「村」を個人的に使用)の劇団も今後もオマールさんとの関係を一層深めたい・・とのこと。
・・ていうことは??・・彼の母国語による会話( それは、自国では人に話せないことも含めて)を山陰の温泉(彼はもはや、露天風呂に限定・・のようですが・・ )で大いに吐露して、人生をリフレッシュする場となる可能性が。。
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我がハラヤグループとしては、スペイン語・・少し特訓していくこととなるかも。。。

 今年の秋の私のテーマは『 山梨 』の原木を見つけること。 ついに見つけました。 場所は「ほにゃらら~(詳しい」場所を教えて他人に採られるといけんので・・もちろん昨今、山梨の現生種などを見分けられるものなど↓でしょうが・・)」です。 とりあえず地主の方に事情を話して、近いうちに長めの竿でも持って伺います・・と了解を取り付けました。 うーーーん・・満足・満足!・・もひとつ満足。
久ーしぶりの本気の『 至福の福祉 』。 表題のこと。 先日公民館に勉強に行くと、駐車場に『 死んだ猫にスズメばちが15匹ぐらいたかっていました 』。 最近にないぞっとする光景ではありました。

151001_090854 「猫に小判」ならぬ・・などとこじゃれている場合ではないので、市役所に連絡して処理をお願いしました。 今、写真の『 小泉英明さんの「アインシュタインの逆オメガ」 』という相当にごたえのある文献を読んでいて、まさに「 蜜蜂でも動物の死体にたかるので赤ちゃん(だけ)は蜂蜜は時に死をまねく 」とかいてあるのではないですか。
もちろん育児書ではないですので、その科学的根拠について記述されていますが。 ともかく、ご用心を。
隠岐騒動の文献ももうすぐ5回目の読了が終わりますので、それに続いて小泉さんのこの文献の、5回読みが始まりそうです。
(ああ、追伸・・○○教授・・ノーベル賞・・などのニュースが飛び交っていますが、この小泉博士・・近い内にノーベル賞・・かも。)
(追伸2)・・そのオマールさん。 我が家のエート・・ハラヤミチコさんを・・くどくことくどくこと・・↑。 ともかく彼と彼の親族の、沈んだココロネをミチコの[シンパティキシモ]で癒したい気持ちらしい。 別にいいですよ。 ただ、エセイサ空港に到着しても外に出れるかなぁ。。まてよ・・ああそうか、次回のオマールさんの来日の時、一緒に同行するという方法もあるか。
 

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隠岐騒動ほか 臨時のUP (2015.10月7日)

  [ ここんとこのハラヤノート ]・・先般、来年「古稀」の同窓会をしますとの案内が。 いつもながら申し訳ないですが参加しないです。 で、返信用の葉書の一口メッセージに次のコメントを記載しました。 『 部分入れ歯はカタカタすーし!、あの世がどんどんキタキタすーし!、年金こーほどクヨクヨすーし!、つれあいケタケタバカにはすー151004_090727し!、体のあちこちコキコキすーし!・・これもあれもめでたいです! 』と。(方言の説明は省略します)
まあ、マゴちゃんへの『パンダのパンだ』的な訓練?のなせるワザかも。 でもまてよ、なんか中学の卒業文集もこんな感じの文章だったかも。。 そういう人間なんだわなぁ。。。

 [ 本日の(ラクダはらくだ)シリーズ ]は、『 うらない師が売らないのよ。 ハム食べないってハムかうわけェ?。 カメさんよくカメば。 反抗的にハンコウを押さないでよ。 』 こないだの日曜日にマゴちゃんの運動会が。 例年にもまして空が高かったです。 それぞれにガンバリました。

 150912_121625しかし、このところ非常に『 ザワザワ 』した日々が続いています。 先般の東京方面からのお客さん以来。 なんだかなぁ~~。

・二か月近く前からハラヤハウスに子猫が。 これはまだ3週目ぐらいの時、ピアノの上を・・まさか「猫ふんじゃった」は弾かないよね・・などとダジャレようとしていたら、まるでガ―シュインばりの前衛音楽が・・。すごい!!  (えーと、今はしつけを始めていますので、こんな姿はもう無いです。) 

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『 隠岐騒動の歴史深訪ツアーによせて 』 (その4)

     全国的な動向はこの「騒動」の20日後にようやく江戸城の開城。 つまり戊申戦争のいまださなかでもあります。 こうした中央における政治権力の混乱と未成熟のなかで「隠岐騒動」も強く翻弄される経過をたどります。

     隠岐騒動と称される蜂起は基本的に島後(現在の隠岐の島町)ですが、一方、三つの島からなる島前(現在の西の島町、海士(あま)町、知夫村)では、従来からの松江藩の懐柔的な施策が行われたため、この蜂起への対応も松江藩よりの対応をとります。 まず、島前の公文など13名が島後がわに内密に小浜経由で京都をめざします。

     これを知った島後の正義党も4月はじめ京都に向かい、先の忌部正行らが西回りで京都を目指し浜田に漂着うんぬんを知らず、第二陣として上京していた16名の者と合流し島前からの上京者らと相対します。

     こうしたなか、松江藩の嘆願・懐柔に対し独断で隠岐を再び松江藩に預ける指示を出す人物が介在するなど、京都の政権が一枚岩でなく、政権としての未成熟が混乱を増幅させていきます。

     かくして、4月13日に隠岐は再び松江藩預けとなります。 そして松江藩は、閏4月12日、70名を先発隊としてふたたび隠岐に向かわせます。 そして緊迫を増す隠岐へ閏4月28日には松江藩はさらに200名を増派します。

     そしてついに5月10日、松江藩は自治政府の本部が置かれた総会所(元陣屋)を一方的に武力にて総攻撃をかけます。 主に鉄砲で撃ちかかる藩側に対し島民側はせいぜい刀等にての応対のため、被害は一方的に島民側に生じ、死者14名、負傷者8名、捕縛者6名、入牢19名の犠牲に終わり、ここで一旦自治政府は崩壊します。

     なおこの時代は陰暦でこの年は閏四月がありました。 そのため、初めて唯物史観的な立場で本格的に隠岐騒動を評価したカナダのハーバード・ノーマンの書簡を始め、多くの文献に第一次の人民政府の期間を1~2か月とした記述が見られます。 しかし実際は3月20日の決起から閏4月もはさみ、この5月10日までは80日あり、3か月近くという期間でした。

     また自治政府の決起までの資料は多数残っているが、樹立されてからどういう政治を行ったかという記録がほとんど残されていないという指摘もあります。 これについて筆者としては、松江藩側の再上陸(反革命)への対応への苦慮が介在していたと思いますが、一方である意味、孤島特有の「原始共産制」的な土壌が残っており、支配者がいなくなったことで島が初期化され、特別な上からの権力を行使した形での行政を必要としなかった面もあったのではなかったか・・などを想起しています。(以下次号)

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