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2015年9月

アルゼンチン・オマールさん再び (2015・10月1日)

 150918_165645 アルゼンチンから人形使いの「オマール」さんが、ほんの10か月ぶりに来松しました。
昨年の舞台のあまりのレベルの高さに、再度八雲村のしいのみシアターさんが招聘されたもの。
・・今回もハラヤグループ?がアテンド(接待)しました。
今回はオマールさん一人を一日半ほどフォローしました。 で、雲南市の「オーベルジュ雲南」で内の○長と3人で宿泊。
なのでこの写真、斐伊川に面した半露天風呂で「天国」を感じているところです。
しかし面影にややヤツレ感が。 きけば親族に様々な不幸があったとのこと。(続報ありかも・・)

 150912_120407 これまたオマールさんの一週間前、中国の高校生さん二人の日本の普通の家庭の半日体験・・を受けたのです。
しかーし、英語が共通言語なのですが、英語が出ずにスペイン語が口からわいてくるので始末が悪い。
あわてて黙る・・そして「筆談」に切り替えるの連続で散々でした。
高校生さん申し訳ありませんでした。
もう英語のお客さんは無理と悟りました。・・もちろん漢字による筆談はOKなのですが・・。

 150913_092751 彼岸花の時期ですね。 でも去年もUPしたので近所のこれを。 ほんとエグイほどの色ですね。

「パンダのパンだ」シリーズ
・おばばのババぬき ・ねむの木でねむい ・ははがハハハとわらう ・やまに登りたいのはヤマヤマだ ・ドクターがドクを食べた ・にわとりさんが「ここここ」 ココはどこ ・しぶい人はシブ柿食べる ・ しんまいが新米食べる ・では出羽三山を紹介します
 新シリーズ発足・・40年来「ハラヤノート」をつけています。そのメモから・・「ここんとこのハラヤノート」というタイトルがいいかも。
で、本日、・腸(超)美人 ・国を鍛える(先般の戦争法をめぐっての朝日新聞の見出し) 

● 隠岐騒動 その3
『 隠岐騒動の歴史深訪ツアーによせて 』 

     慶応4年(1867)3月18日夜、西郷上西村の横地官三郎宅を目指して集まった島民3000余人は翌朝、西郷の松江藩の陣屋に出発します。 時代は全国的には戊辰戦争の最中であり、この年の9月に元号が明治に変わる数か月前でした。

     記録によれば3046名が決起。 郡代の山郡宇右衛門に6か条の質問状を提出します。 「再三願い出た文武館設置の嘆願への一方的な対応について」、「鎮撫使の交翰の無断開封」等と合わせ【隠岐の国がもはや朝廷の御料となったからには、朝敵となる徳川の郡代の支配は受けない。 早々に立ち退き帰国されたい】という項目こそ、この決起の中心となる眼目でした。 つまり暴動や殺傷でなく、ただ純粋に「立ち退く」ことをのみ毅然としてせまったのでした。 それは隠岐騒動が単なる土着民の偶発的な暴動というレベルでなく、はっきりした「思想」をもとに行動された特質を示すものです。

     郡代の山郡(やまごおり)は槍にて討って出ようとするも近習に抑えられ、ひとまず藩の御用船に避難します。 蜂起した島民側は翌日「屈服状」を要求します。 その内容は「このたび、憂国の同志衆より申し出の件、一々屈服つかまつり、即刻本日立ち退き、帰国つかまつる」という徹底したものであり、松江藩からみれば屈辱的なものでした。

     翌日3月20日、やむなく一旦「島前」を目指すべく島を離れます。 この際、島民側は郡代一行に「白米四斗入り二俵と清酒二斗入り一樽」を贈ります。 こうした行動も隠岐島民の物の考え方と同時にこの蜂起の特性を如実に示しているように思われます。ですからここまでの経過において一人の死者等を出していないことも容易にうなずけることです。

     さて郡代一行は、一旦、島前に避難的に立ち退くつもりでしたが、どういう訳か船は直接本土をめざし、気がついた時には雲津の浦にまさに着かんとしていのでした。 郡代一行はまさに驚愕したと思われますが、どういう背景で船頭がこうした行動をとったか興味があるところです。

     決起に完全勝利したかたちの島民側はただちに長文の「檄文」を島後中に発します。そして自治政府としての今でいう司法・行政・立法・海軍省・陸軍省・通産省などに該当する16の部局を創設し70人の人材を配置します。

     一方、悄然として松江に帰った郡代一行へは、郡代の山郡への切腹(2か月後)などの藩の処置が待ち受けていました。

   しかし時代の制約の中、このまま事態が平穏に過ぎていくことはありませんでした。(以下、次号へ)

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冊子○○○部ほしいんですが・・(2015.9月15日)

 【 突然ですが、このブログ月2回ですが、それ以外に、ときどき不定期にUPするかもしれません。 (まあ、どうなるか?)】 150905_084956 
 さて先日、東京や○○方面から○○な方が我が家を訪問され、「漫画で見る斎藤メソッドのリズムあそび」の冊子のことで2日間にわたって○○の打ち合わせを。
 内容はご容赦ください。来年の3月あたりに言えるかも、言えないかも。 来訪いただいた方、まことにすみません。 せっかくいらしてくださったのに写真もUPせずにまことに申し訳ありません。 しかも伏字だらけで。
添付の写真も関係ないですし。 造花だし、、ですが、これも「花」に加えてください。

150822_060845 それで、上の話に多少関連があるのですが、10年にわたって1200本をUPしてきたこのブログ、全部のブログをチェックをして、【ア――!、今日も、PCの調子がおかしいィー!】とか、【誤字・脱字の手直し】を・・そうですね、2か月ですむのか、6か月以上かかるのか見当がつきませんが、ともかく挑戦開始中です。
 しかしこの作業、容易ではないのです。 画面までたどりつけば修正は容易なのですが、そこまで遡る手順がまことに~な作業なのです・・とまあ、いつもの【正調ぼやき節」。
新しくこのブログをのぞく方がおられましたら、そのあたり「なまあたたかい」ご配慮をお願いいたします。

150903_181726 なんか硬い画面が続きますが、東京方面からのお客さまを迎えるにあたって、資料をいろいろひっくり返していましたら、2000年から2002年の、つまりまだブログはおろかPCにもさわらない時代の(アルゼンチンの日系社会の高齢者支援の時期の)資料に思わず目(手)が止まりました。
なかなか元気があるなー。。と思わず読みふけったり。。 これらも、今後このブログで紹介するのも一考かと思ったりした訳です。
 エート、「至福の福祉」的な話とも言えるかなぁ・・と思ったり。
 イチマゴちゃんと「ダジャレごっこ」をすることも。 まあ「ワニがワニなる」的な。 それで思いついたのを書きとめます。 ①あんまさん、あんまりあんまをしないでね。 ②階段で怪談の話をしないでね。 ③とっとこ 行って とっとこか。。。 すみません。 まあ公的なブログじゃないので。。三マゴちゃんまで含めると向こう10年ぐらいはネタが欲しいので・・。

では「隠岐騒動」の続きです。

『 隠岐騒動の歴史深訪ツアーによせて 』 (その2)

□ さて幕末の動乱と混乱は慶応3年10月の「大政奉還」ですんなり政治体制が切り替わったということにはならなかったことは御承知のとおりです。 鳥羽・伏見の戦いから戊申戦争と動乱は全国に及び、私見もふくめてのべれば明治10年の西郷隆盛らの「西南の役」までがいわば内戦状態の期間だったわけです。

□ ともかくこの年の12月(いまだ明治に改元されていない)の「王政復古」をうけ、山陰道鎮撫使に西園寺公望がなり、山陰道への鎮撫に動きます。 隠岐の島の道後ではこうした時の動きに敏感に反応していったように考えられます。しかしすべての情報が同時的に伝えられたわけでもなかった時代の制約も見られます。 一方松江藩は、もとより自分たちの権益が根こそぎ失われる危機ですから、枝葉をとらえて自分たちの都合のいいように、時には悪意をもって対応したように見られます。

□ まさにこうした時、隠岐の島の庄屋や主だった神社の宮司たちは、現在の五箇村の水若酢神社の膺懲館(ようちょうかん)に極秘に集まり、宮司の忌部正弘ら11名は直接京都に行って中村了三から正確な時代の趨勢と前後策の教示を受けることを決意、1868年(慶応4年)2月密かに離島、西回りで京都を目指します。

□ この時代、隠岐から京都へは通常若狭(福井県)の小浜へ、そして京都へという最短コースがありましたが、そのルートをとらなかった理由がなにかあったのかもしれません。 また、当時こうした隠岐の島後の人民の進取の動きは主として周辺部の村々を中心に起こります。 なかでも現在の五箇村はその中心であったようです。

□ さて脱島組の11名は長州をまわり瀬戸内海を経て京都を目指したと思われますが、長州沖で風に押し戻され浜田に入港します。するとすでにそこに進駐していた長州藩につかまります。しかし結局長州と同じく倒幕派とわかり疑いは解けます。 と同時に、すでに京都では大政奉還を受けて新しい時代に移行しつつあることを教えられます。 そこで京都行きを変更し帰島を決定します。

□ 一方同時期に、官軍の山陰鎮撫使はすでに米子まで着陣し隠岐国公文(くもん)への公翰(こうかん)を発します。ところが松江藩はその公翰を無断で開封するという愚挙をしでかします。

□ この松江藩の公翰の無断開封という事件が隠岐島民の最後の決意の導火線となります。 暴風等で遅れていた脱島組の11名も3月9日に帰島、そして3月15日から3日間かけて一部激論もふくめ討論を重ね、ついに松江藩の支配を拒否すべく郡代の山郡(やまごおり)宇右衛門の隠岐島からの追放を決定します。 (以下、次号)

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正調炭坑節・・(2015・9月11日)

● 九州炭坑節でググってみると、「♪ 月が~ 出た出た~ ♪」と歌うのは、流行歌の炭坑節で、我々の『 正調 』はそんなん歌わん・・とムベも無い。150821_095742
で、現地の正調を少し。。 なにしろハラヤノートのメモの個所に他のことを書きたいので。。

 あなた いったいぜんたい どこのひと~   ヨイ ヨイ
  顔は福岡 目は久留米
  足は長崎 手は肥前
  心 門司 門司 気は佐世保 サノ ヨイ ヨイ

 アシが出た出た アシが 出た ヨイ ヨイ
  うちの家計に アシが 出た
  あんまり 賃金が 安いので
  さぞや 会社は もうけたろ サノ ヨイ ヨイ

 一部屋 二部屋 三部屋 越え ヨイ ヨイ
  たどりつきたる 四畳半
  中で二人の うめき声
  私 一人が カヤの 外 サノ ヨイ ヨイ

・・とまあこんなぐあいです。

 今を去る2000年に、JICAの日系シニアボランティアの高齢者福祉で、アルゼンチンで活動していた時、ある高齢の方に私が、「月が 出た出た~」と歌ったら、「君もまだ 青いね」と一喝されました。 そしてその方が歌ってくれたのは
□ 酒は 酒屋で 飲んで 来た~ ヨイ ヨイ
  歌は 道々 うとて(唄とて) 来た
  カカよ ただいま 戻ったで
  生まれ 故郷よ こっちゃ むけ サノ ヨイ ヨイ
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・という堂々たるもの。
それに対する返歌を私が作りました・・の話は・・また・・いずれ の 心だー。

写真は最近、雲南市(なんて書きたくもないが・・)の加茂町のほうの障がいの青年たちと一緒に歌レクの場が・・。 そのとき、玉造の奥の「大谷(おおだに)」地区を越えていきます。 そのあたりのFHOTです。
 エート、、この種の話を敬遠される方も100人に一人ぐらいおられると思いますが、現代の三等下(山頭火)として『 民俗 』にたいする謙虚な姿勢をつらぬきたい自分ですので・・・・・ヨロピコです。以下・・略。
 突然の臨時のUPがこれ?ってわけ (  ) 

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